2011年9月9日金曜日

日本楽府第二闋「三韓來」 頼山陽

前々回,マイスプ+の放送で彦十郎さんに御教授頂きました日本楽府の「三韓來」.これを,自身の復習を兼ねて書き留めておこうと思います.

 訓み方は,

東征(とうせい) 冥勃(めいぼつ)を渉(わた)り
吾(わ)が妻 我(われ)に先(さきだ)ちて没す
西伐(せいばつ) 嶢屼(げうこつ)に入り
吾が児(じ) 妻に先ちて没す
何ぞ知らむ 娘子(ぢやうし) 軍を摂して巣窟を擣(つ)くを
両(ふた)つながら社稷(しゃしょく)に死して 其の後を昌(さかむ)にす
患難(くわんなん) 家を持するに 健婦(けんぷ)あり
胎中(たいちう)天皇 腕肉(わんにく)凸(たか)し
乃(だい) 父祖(ふそ)に肖(に)たり 母に肖たるに非ず
龍顔(りょうがん)涙垂れて 侍臣(じしん)哀しむ
先皇(せんくわう)目せず 三韓の來るを


該当のアーカイブ動画.
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註記にはこうある.
神武より十傅して崇神に至り,四道将軍を置き,四方の不庭(ふてい)を征す.崇神垂仁に傳へ,垂仁景行に傳ふ.
景行の皇子小碓(をうす),魁偉雄武(くわいゐゆうぶ),時に筑紫の熊襲叛(はん)す.小碓を遣はし,一戰して之を平らぐ.號(がう)して日本武尊と曰ふ.
已にして遣はして東國を經略せしむ.軍勢,相模洋(さがみなだ)を濟(わた)る.颶(ぐう)に遇(あ)ひ船殆んど覆へらむとす.時に妃(ひ)橘媛(たちがなひめ)從ふ.曰く是れ海神の祟を爲すなり,妾(せう)願くは身を以て之に當らむと.自ら海に投じて死す.風止み濟ることを得たり.
既にして東夷平ぎ,還りて碓氷嶺を過ぎ,妃を懐(おも)ひ東を望み,長呼して曰く.吾妻(あがづま)吾妻(あがづま)と.世東國を呼んで,吾妻(あづま)と稱するは此より始まる.皇子還り,美濃の賊を勦(つく)し,創(きづ)を病んで薨ず.
景行,皇子を以て嗣(ひつぎ)となさむと欲し,其薨ずるに會ふ.乃ち其弟を立つ是れを成務帝となす.而して帝之を仲哀帝に傳ふ.
帝は日本武尊の第二子.身の長(たけ)十尺.熊襲再び叛するに會ふ.新羅と勢ひを連らぬ.帝親(みづか)ら西征す.皇后直(たゞ)ちに新羅を擣(つか)むことを勸む.帝果さず,熊襲を撃つ.創(きづ)を病んで行宮(あんきう)に崩ず.
后(こう)時に娠(はら)めるあり.喪を秘して發せず,兵を分ちて筑紫の諸族に當らしめ,而して遂に自ら舟師(しうし)を將(ひき)ゐて新羅を征し,其不意に出で之を下し,歳幣(さいへい)を約して還へる.
筑紫に至り,皇子乃ち生る.是れを應神帝となす.帝生れて神異,腕上肉起る鞆(とも)の如し.后の雄装して鞆を負ふに似たり.故に譽田(ほんだ)と名(なづ)く.譽田は鞆の古言なり.亦胎中天皇(たいちうてんわう)と稱す.
後數歳(のすうさい)新羅百済高麗と,盡く來貢す.帝泣いて曰く,是れ先帝の見むと欲する所にして,而して及ばざる者なりと.群臣皆爲(た)めに涕(なみだ)を掩(おほ)ふ.
是れより三韓永く我が属國となり,朝貢絶えず,經籍(けいせき)傳へ至るも亦此時に於てす.後,日本府を任邦(みまな)に置き,將を遣して都護(とご)となす.
成務以前は,皆父子相承(う)く.日本武の功(こう)最も大なるを以て,特に仲哀を立つ.此より皇統百二十傅,皆日本武尊の皇胤なり.


註記に書かれている内容が理解できれば,この詠の意図する所はすべて分かるはずだが,多少難しいので系図を見ながら解説する.
①「神武より~景行に傳ふ」は第十二代景行天皇まで皇統が続いていたという導入.

②景行天皇の皇子に小碓命というのがいた,ということで,これが筑紫の熊襲を征伐して日本武尊と名乗る.引き続いて有名な,日本武尊の妃の「弟橘媛の入水」が語られている.(相模の海を渡る際船が全く進まなくなる.これは海神の祟だと言って弟橘媛は自ら入水して神を鎮めた.)

③皇位は景行天皇から日本武尊の弟の成務天皇に引き継がれるが,その次は日本武尊の御子に伝えられ仲哀天皇が即位する.

④この時,熊襲が再び反乱を起こす.これは朝鮮半島の新羅と結託してのことだった.天皇は親ら征伐しに行くが,神功皇后は新羅をうつべしと勧めた.しかし天皇はこれを果たさずに崩御された.(九州の山中で神功皇后は住吉大神の神託を受けた.それは新羅を征伐すべし,というものであった.しかし仲哀天皇はこれを疑い祟によって崩御した.)

⑤神功皇后はこの時妊娠していたが,その状態で朝鮮にわたり三韓を征伐した.

⑥筑紫に戻ってきたときに応神天皇が生まれた.応神天皇は腕の筋肉が鞆(弓術で使う防具)のように盛り上がっていた.神功皇后が武装したお姿に似ている.だから応神天皇は譽田(鞆の古語)と名付けられた.(応神天皇の諱は誉田別尊という)

⑦この後,三韓は朝貢しに来るようになる.これをみて応神天皇は涙する.先帝陛下が望んで目にすることが出来なかったことだからである.

⑧これよりながく,朝鮮半島はわが国の属国となり朝貢が絶えなかった.儒教の経典が伝わったのもこの時である.

⑨成務天皇までは皇統は父子で伝えられていた.日本武尊の功績で成務天皇の次は仲哀天皇がたてられた.これより120代にわたる皇統は皆,日本武尊の皇胤である.




上をふまえて再度,まとめたい.(番号は上記のストーリーと対応)

東征(とうせい) 冥勃(めいぼつ)を渉(わた)り
吾(わ)が妻 我(われ)に先(さきだ)ちて没す

――私(日本武尊)の妻は,海神を静めるために私に先んじて死んだ.②

西伐(せいばつ) 嶢屼(げうこつ)に入り
吾が児(じ) 妻に先ちて没す

――私(日本武尊)の息子は,熊襲の反乱を征伐しに行ったおり妻に先んじて死んだ.④

何ぞ知らむ 娘子(ぢやうし) 軍を摂して巣窟を擣(つ)くを
両(ふた)つながら社稷(しゃしょく)に死して 其の後を昌(さかむ)にす
患難(くわんなん) 家を持するに 健婦(けんぷ)あり

――妻の弟橘媛も,子の仲哀天皇も,国のために死んで子孫を繁栄させた.

胎中(たいちう)天皇 腕肉(わんにく)凸(たか)し
乃(だい) 父祖(ふそ)に肖(に)たり 母に肖たるに非ず

――応神天皇の腕が盛り上がっているのは神功皇后に似たのではなく,日本武尊や仲哀天皇に似たのである.(⑥を前提としてわざとこう書いている)

龍顔(りょうがん)涙垂れて 侍臣(じしん)哀しむ
先皇(せんくわう)目せず 三韓の來るを

――三韓が朝貢してきたおり,先帝陛下を思い,応神天皇は涙を流した.⑦

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